見どころ

名作への期待に胸膨らませて会場を訪れた来館者を先ずお迎えするのは、肖像画の数々です。17世紀のオランダを代表する画家フランス・ハルスの傑作、《男の肖像》にはじまり、フランス古典主義の完成者アングルが愛情を込めて描き出した妻の肖像、さらには友人シスレーをモデルにルノワールが描いた若き日の半身像など、各時代を彩る名人たちの筆による個性豊かな肖像画が並びます。これらの作品により、西欧絵画200年の伝統とその表現の推移、さらにビュールレ・コレクションの広がりと厚みを体感することができます。

日本初公開

ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル《J.A.D. アングル夫人、旧姓マドレーヌ・シャペル》

(1814年頃)

アングルの妻、マドレーヌを描いた肖像画。1813年に結婚した二人は、1849年にマドレーヌが死去するまで非常に仲睦まじい夫婦として知られました。穏やかに微笑みながらこちらを見つめる彼女の姿は、アングルにしては珍しく、やや粗い筆遣いによって描かれています。

ピエール=オーギュスト・ルノワール《アルフレッド・シスレーの肖像》

(1864年)

1861年、画家シャルル・グレールがパリで開いていた私塾で出会ったルノワールとシスレーは、その後も親交を深めました。本作品では、経済的な困窮など苦難に見舞われる前の若きシスレーが、非常にリラックスした様子で描かれています。

この章ではヴェネツィア、ロンドン、パリといったヨーロッパの大都市を描いた作品をご覧いただきます。ビュールレ・コレクションの中核は、19世紀後半の印象派、ポスト印象派の作品ですが、大学で美術史を学んだビュールレは、自らのコレクションにも歴史的な広がりを与えたいと考えていました。18世紀前半のカナレットが描いた写真のようなヴェネツィアの風景。それから百数十年後の、色彩の中に全てが溶け合うようなモネのロンドンの風景。二つの作品は風景表現の歴史と画家の個性のあり方を明確に教えてくれます。

アントーニオ・カナール(カナレット)《サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂、ヴェネツィア》

(1738/42年頃)

景観画の巨匠、カナレットによる本作品には、ヴェネツィアのカナル・グランデの東方の眺望が描かれています。前景に描かれたサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂は、当時のヴェネツィア絵画において好まれたモティーフのひとつでした。暖かな陽光と輝く水面、澄んだ大気や建造物の細密な表現など、カナレットの景観画の特徴を示しています。
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クロード・モネ《ウォータールー橋、ロンドン、太陽の印象》

(1899/1901年頃)

普仏戦争が始まった1870年、ロンドンに移住したモネはターナーの作品に感銘を受け、亡命したフランス人芸術家とのネットワークを築きました。それから20年後、ロンドンを何度か訪れ、都市の建物を主題とした一連の作品に取り組みました。本作品では、光に満ちた、捉えどころのない霧がかった都市の情景が描き出されています。

19世紀のフランス美術の最も大きな変化といえば、主題性が希薄になっていく点があげられます。つまり何を描くかではなく、いかに描くか。神話や宗教、歴史といった、それまで最も重要と考えられていた主題が後退し、風景や静物など、日常の何気ない一瞬を捉えたような作品が画家たちの関心の的となっていきます。この章では、ドラクロワやシャヴァンヌなど、古典的な主題を取り上げながらその様式で近代への扉を開いた画家たちや、しばしば近代絵画の父と称せられるマネを中心に紹介します。

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ウジェーヌ・ドラクロワ《モロッコのスルタンとその従者たち》

(1862年)

1832年、ドラクロワは記録係としてフランスの使節団によるモロッコ訪問に随行し、同国のスルタン、ムーレイ・アブド=エル=ラッフマーンに謁見しました。ドラクロワは、この時の記録や記憶を基にスルタンを描いた作品を1845年のサロンに出品した後も、同主題をたびたび手掛けています。1862年に描かれた本作品では、多くの従者に囲まれたスルタンの威厳のある姿が鮮やかに描かれています。

エドゥアール・マネ《オリエンタル風の衣装をまとった若い女》

(1871年頃)

東洋趣味を示す本作では、伏し目がちな表情をした女性が、中東風の装飾品とシースルー状の白いロングドレスを身に着け、佇む様子が描かれています。本作品におけるマネの関心は、この衣装の表現に向けられているようです。官能的な衣服を身にまとった女性の姿には、妖艶さと倦怠感が漂っています。

印象派の画家たちは、肖像、静物、風俗など様々な主題に挑戦しましたが、最も熱心に取り組んだ画題が風景でした。パリ近郊、セーヌ河畔の豊かな自然を舞台に繰り広げられる作品の数々は、描かれた時の光のきらめきや風のささやきを感じさせるほど、生き生きと表現されています。世界中の人々を魅了するこの美しい風景画が、誕生当時酷評されたことなど今では信じがたいものがありますが、それほどまでに自然を写し取る彼らの細やかな技法は革新的だったのです。

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カミーユ・ピサロ《ルーヴシエンヌの雪道》

(1870年頃)

パリ郊外のルーヴシエンヌで家族と暮らしていたピサロは、普仏戦争が始まると戦争を逃れて数か月ロンドンに滞在しました。プロイセン軍が侵攻し、自宅が占拠されてしまう前に描かれた本作品では、戦争の前の平和な日常を象徴するかのように、柔らかい陽の光が雪道を照らす穏やかな光景が広がっています。
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アルフレッド・シスレー《ハンプトン・コートのレガッタ》

(1874年)

1874年、シスレーはバリトン歌手ジャン=バティスト・フォールに招待され、ロンドンに約4か月間滞在しました。本作品は、シスレーが対岸にハンプトン・コート宮殿を望むキャッスル旅館に滞在した際に制作されました。軽やかな筆致と簡略化した構図によって、夏場のボート競技の様子が生き生きと描写されています。

クロード・モネ《ジヴェルニーのモネの庭》

(1895年)

1883年の春、モネはジヴェルニーに移り住み、1926年にこの世を去るまで、自然豊かなこの地に住み続けました。本作品では、シャクヤク、ゼニアオイ、バラやアイリスなど、色とりどりの花を愛でるモネの義理の娘、シュザンヌ・オシュデが描かれています。点描のような細かい筆触からは、印象派絵画の新たな展開がうかがえます。
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エドゥアール・マネ《ベルビュの庭の隅》

(1880年)

本作品で描かれているのは、マネが夏の間過ごしていたパリ近郊の別荘とその庭です。戸外で制作され、軽やかな筆の運びと明るい色彩を特徴とする本作品は、マネがモネをはじめとする若い画家たちと親交を持ち、印象派への志向を強めていったことを示しています。

印象派の画家の多くは風景や静物を得意としましたが、ドガとルノワールの二人は主に人物に力を注ぎました。そして人物を対象にしながら、そのポーズや動きに着目し、冷静なまなざしで一瞬の姿を画面に記録したドガに対し、ルノワールはモデルに寄り添うようにしてその生命の輝きを、豊かな色彩によって謳いあげました。対照的な個性を見せる二人ですが、長い伝統を誇る人物を中心に据えたその作品には、他の印象派の作家とは異なる、どこか古典的な趣が漂っています。

エドガー・ドガ《リュドヴィック・ルピック伯爵とその娘たち》

(1871年頃)

ドガの友人で、印象派展への出品経験をもつ芸術家でもあったリュドヴィック・ナポレオン・ルピック伯爵と2人の娘を主題とした肖像画。大胆で自由闊達なすばやい筆致と、透明感ある色遣いによって巧みに表現されています。
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ピエール=オーギュスト・ルノワール《泉》

(1906年)

本作品の制作当時、65歳であったルノワールの健康状態は深刻化していました。たびたびリウマチの発作に見舞われ、手の関節が変形したことによって絵筆を持つこともままならない状態となったのです。しかしながらその創作意欲が衰えることはなく、本作品でも豊麗で愛らしい裸婦が生命力豊かに描き出されています。

マネ、モネ、ルノワールなど、ビュールレ・コレクションの印象派の傑作は枚挙に暇がありませんが、中でも白眉と言えるのがセザンヌの充実したコレクションです。6点の出品作は、暗い情念を感じさせる初期のバロック的宗教画から、印象派の筆触を独自に展開させた風景画、最盛期の妻の肖像と自画像、キュビスムの先駆を思わせる最晩年の作品まで、この画家の作風の変遷を明らかにしています。そして、近代美術の金字塔ともいえる《赤いチョッキの少年》は、絵画を見ることの喜びのすべてを私たちに与えてくれます。

ポール・セザンヌ《パレットを持つ自画像》

(1890年頃)

セザンヌの自画像のなかで最大のサイズを誇ります。画家としての自負にあふれたポーズで、堂々と立つ50歳頃のセザンヌ。頭部や両肩の丸みに、パレットとカンヴァスの鋭い四角形が対比されています。簡素な黒い仕事着に包まれた体躯が、がっしりと立体的に捉えられています。
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ポール・セザンヌ《庭師ヴァリエ》

(1904/06年頃)

1902年にセザンヌは、南仏レ・ローヴの丘に新しいアトリエを建てました。少し坂を上るとサント=ヴィクトワール山を一望できるこの絶好の場所で最晩年を過ごしたセザンヌ。その身の回りの世話もしていた庭師ヴァリエは、最後のモデルでもありました。未完の本作品は、晩年に特有の瑞々しく軽やかなタッチで覆われています。

セザンヌと並ぶポスト印象派の代表的画家ファン・ゴッホのコレクションも大変充実しています。6点の出品作はこの画家の様式の変遷をたどるのに十分な多様性を見せていますが、それが僅か6年の間に描かれたものと知るとき、驚きと戸惑いが私たちを襲います。炎の人と呼ばれるこの画家が、いかにその短い生涯を燃やし尽くして作品を生み出したのか、6点の作品が雄弁に物語ります。そして、作者と作品とが分かちがたく溶け合い見るものに迫る、という体験もこのファン・ゴッホから始まります。

フィンセント・ファン・ゴッホ《花咲くマロニエの枝》

(1890年)

サン=レミの病院を退院した後、ファン・ゴッホは、パリ近郊のオーヴェール=シュル=オワーズで印象派絵画の愛好家でもあったポール・ガシェ医師と多くの時間を過ごしました。かつてガシェ医師が所蔵していた本作品では、厚みを増した筆触を特徴とし、画家がパリ時代に取り入れた新印象主義の手法を独自に発展させたことを示しています。

フィンセント・ファン・ゴッホ《種まく人》

(1888年)

1888年にパリからアルルに居を移したファン・ゴッホは、ジャン=フランソワ・ミレーの同名の作品から想を得て、油彩や素描で繰り返しこの主題に取り組みました。浮世絵からの影響が明確に示された本作品では、画家は画面の上下を断ち切り、樹木と対比させることで、鑑賞者の視線を人物に引き付けています。

19世紀後半のフランス絵画は、印象派やポスト印象派の画家たちによる造形的な探求が進み、20世紀のモダン・アートへの道が用意されました。一方で、造形的な探求に飽き足らず、人間の内面に迫ろうとする画家たちも世紀末になると登場し、20世紀絵画のもう一つの方向性を示します。この章では象徴派やナビ派、綜合主義などに分類される、ヴュイヤール、ボナール、ゴーギャンといった画家たちの、時にメランコリック、あるいは謎めいた作品の数々をご紹介します。

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ポール・ゴーギャン《贈りもの》

(1902年)

タヒチのパペーテを離れたゴーギャンは、1901年にマルキーズ諸島のヒバオア島アトゥオナに移住しました。西洋の文明社会から逃れ、タヒチでの生活を始めて以降、ゴーギャンは現地の人々を鮮やかな色彩と平面的な構図の中に描き出しました。新しい命の誕生を祝って花を贈る場面を主題とした本作品では、タヒチ時代の様式に加え、女性の肌には繊細な色調表現が認められます。
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アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《コンフェッティ》

(1894年)

本作品は、イギリスの製紙会社J.&E.ベラ社のために制作されたポスターの習作です。コンフェッティとは、カーニバルの時に使用される紙吹雪を意味しています。1890年代、トゥールーズ=ロートレックは、役者や踊り子、そして歌手をモデルに多数のポスターを制作しました。楽しげな表情を浮かべる女性は、画家が長年描き続けていた女優のジャンヌ・グラニエをモデルとしています。

この章ではピカソやブラックなど、20世紀のモダン・アートをご紹介します。ビュールレ・コレクションの大半は1940年以降の10数年間に収集されていますが、抽象絵画など当時の現代美術は含まれていません。コレクションの中で最も新しいものは20世紀初頭のフォーヴィスムやキュビスムなど、その後の絵画の急激な変貌を予兆するモダン・アートの一群の作家たちです。僅かな時間の間に目まぐるしいほどの変化を見せる彼らの作品は、20世紀初頭の絵画革命の熱気を生き生きと伝えてくれます。

©ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2693

ジョルジュ・ブラック《ヴァイオリニスト》

(1912年)

1908年以降、ブラックはピカソと共に、物体を平面的な小さな面に解体し、それらを再構成するキュビスムの絵画を作り上げるようになりました。1912年に制作された本作品では、演奏者のイメージは細かく分解されていますが、ヴァイオリンの4本の弦とf字孔ははっきりと認識できるように描かれています。

©2017-Succession Pablo Picasso-SPDA(JAPAN)

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パブロ・ピカソ《花とレモンのある静物》

(1941年)

1940年にナチスによるパリ占領が始まっても、ピカソはパリのグラン=ゾーギュスタン街のアトリエで作品を制作し続けました。1944年のパリ解放までの間、ピカソが描いた静物画は戦争の暗い影を落としています。本作品でひときわ目を引く画面を分割する黒い線は、占領下の不安や苦悩を感じさせる静物画にたびたび現れました。